COLUMN

バランタイン

スペック

【生産地】 イギリス、スコットランド

【生産者】 BALLANTINE'S

【販売者】 サントリー

バランタイン

奉公人ジョージ・バランタイン

カルロ・ガンチャ

スコッチ・ウィスキー「バランタイン」の祖であるジョージ・バランタインは、19世紀初頭にスコットランドに生まれました。
農夫の息子であったジョージ・バランタインは、1822年13歳の時にスコットランドの首都エディンバラに向かいます。
食料品と酒を扱う商人の下で、5年契約の徒弟(奉公人)として働くためでした。


当時のスコットランドはイングランドの圧政下にあり、15世紀末から造られていたスコッチ・ウィスキーも非合法のものとされていました。
しかし、この1822年に英国王ジョージ4世がエディンバラを訪問するなど融和政策が打ち出されました。
ウィスキーの製造も合法化されることになり、蒸留所も次々に増えてゆくことになります。


そうした情勢下でジョージ・バランタインは黙々と仕事をこなし、商人としての立ち居振る舞いを身につけ、麦などの穀物や、ワインやウィスキーなどの酒の知識を深めてゆきます。
5年後の1827年、徒弟契約を終えた18歳のジョージ・バランタインは、エディンバラの一角で起業して自分の店舗を持ちます。
この店舗が何の店だったのかについて記録は残っていませんが、経営は順調であったようです。
ジョージ・バランタインは23歳と28歳の時に店舗を移転し、エディンバラの都心に移って商売を行うようになりました。
事業は順調に発展し、33歳で結婚した時には、早くも高級住宅街の豪邸に住んでいました。

 


ブレンデッド・ウィスキーとバランタイン

ウィスキー解禁後のスコットランドでは、多様なウィスキーが造られており、ウィスキーを水増しするために安酒を混ぜることもしばしば行われていました。
そうした中で、エディンバラのウィスキー商アンドリュー・アッシャーが、より良い風味を生み出すための「ブレンディング(混合)」を、1853年に初めて行いました。
このことは、一地方の地酒に過ぎなかったウィスキーが世界中で飲まれるようになる大きな転機でした。
現代と違い、当時は数種類のウィスキーを用いるだけのブレンディングでしたが、ブレンディングを行わないシングルモルト・ウィスキーの評価と一線を画するのに時間はかかりませんでした。


アンドリュー・アッシャーの友人であったジョージ・バランタインは、このブレンデッド・ウィスキーの持つ可能性にいち早く気づきました。
持ち前の企業家精神から自らウィスキーをブレンディングし、より上質なウィスキーを模索。
当時はブレンディングの手法も手探りでしたが、彼の勤勉な性格と深い知識によって、「バランタイン」のウィスキーは人気を博してゆくようになります。


1869年、60歳となったジョージ・バランタインは、商店の経営を息子に任せ、スコットランド最大の都市グラスゴーに移り住み、ウィスキーの卸売業を本格的に始めました。
やがてジョージ・バランタインは「ブレンダー」として名を知られるようになります。
バランタインのウィスキーは高く安定した品質が評価されて海外にまで輸出され、事業規模は拡大する一方でした。
そしてすべてが順調に回っていた1891年、ジョージ・バランタインは静かに82歳の生涯を終えました。

世界のバランタイン

ジョージ・バランタインの死から4年後、エディンバラの商店を継いだ長男のアーチボルト・バランタインは、エディンバラのメインストリートに店を移転。
同年、ウィスキー事業を継いだもう一人の息子ジョージ・バランタイン2世は、ヴィクトリア女王より「王室御用達」の称号を授与されました(左画像)。


しかし、20世紀に入ると、バランタインは一族経営の限界に直面するようになります。
ジョージ・バランタイン2世が70歳になろうとする1919年、バランタインの経営権はバランタイン家からウィスキー商のバークレー・マッキンレー商会に譲渡されました。
この時の条件は、バークレー・マッキンレー商会にとって破格の条件だったそうです。


経営者の交代は、バランタインの国際競争力を高めることになり、1930年代のアメリカの禁酒法時代も乗り越えることができました。
しかしスコットランドの不況により、1935年にはカナダのハイラム・ウォーカー社が買収。
1937年にはバランタインを代表する「17年」が生み出されました。


第二次世界大戦後は何度も経営企業の買収、統合が行われ、現在はペルノー・リカール傘下のアライド・ドメック社がバランタインの製造を行っています。
このアライド・ドメック社には、初代ジョージ・バランタインが13歳の時の「徒弟契約書」が、今でも変わらぬ形で保存されています。

バランタイン17年の誕生

バランタイン17年(1937年)

バランタインの代表銘柄である「バランタイン17年」は、バランタインを買収したカナダのハイラム・ウォーカー社のスコットランド進出を記念して、1937年に生み出されました。
この時代は、バランタイン家時代に醸造された原酒が、アメリカの禁酒法による需要の減少から多数残されており、熟成の進んだ状態で保管されていました。
また、ハイラム社が新たに買収した他の蒸留所のモルト・ウィスキーも、評価の高いものでした。
そのため、これらを活用して最高のブレンデッド・ウィスキーを造るというプロジェクトが持ち上がったのです。


プロジェクトリーダーは、バランタインの2代目マスターブレンダーであるジョージ・ロバートソン。
彼は、まず経験を元にスコッチ・ウィスキーが十分に熟成するのに必要な年数を検討しました。
その結論は「17年以上」。
このことから、「17年」という年数が決定されました。


それからブレンディングする原酒を検討し、「魔法の7柱」と呼ばれる7種を選定。
それらを繊細な比率で配合して「バランタイン17年」が完成しました。
現在の「バランタイン17年」は40種以上のウィスキーをブレンディングしていますが、主要な7種(スキャパ、プルトニー、バルブレア、グレンカダム、グレンバーギ、ミルトンダフ、アードベッグ)は当時から変わっていません。


そして「バランタイン17年」が市場に出ると、常に品薄になるほどの評判を呼びました。
現在も年間2500ケースの限定品であり、スコッチ・ウィスキーの代表格として君臨し続けています。

Amicus Humani Generis(1938年)

バランタインのシンボルマークは、紋章が用いられています。
紋章は日本人にはあまり馴染みがないですが、英国では紋章院によって厳格に承認と運用が規定されています。
紋章は現在では一般の企業や商品への新たな使用は認められておらず、それを用いることは名誉と地位と伝統の裏付けとなります。
バランタインが紋章の使用を認可されたのは、「バランタイン17年」を世に送り出した翌年の1938年のことでした。


バランタインの紋章には、4つのマークが配されています。
大麦、清流、ポットスティル、そして樽です。
これらはウィスキー造りで重要な4大要素であり、それぞれが大地、水、火、大気の象徴でもあります。
その下にはラテン語で“Amicus Humani Generis”と記されており、直訳すると「あらゆる人の友」との意味になります。

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